神戸大学・篠山市農村イノベーションラボ ポン真鍋

神戸大学・篠山市農村イノベーションラボ ポン真鍋

・時代の変化と世の中の流れを見据え、体現する決意 

生まれ育ったのは香川県高松市で19歳まで過ごしました。大学進学にあたり東京へ行き、東京大学大学院を卒業後就職しました。26歳くらいの時ですね。32歳、2011年まで東京にいました。東京での仕事で大きな不満があったのではなく、世の中的に閉塞感を感じ、このまま日本が上手くいくのかな?という疑問があって。これからどんな時代になるのかを考えた時に、これまでは中央集権、男性社会で上手くいっていたけれど、日本が国自体、年老いてきている、年老いたら人間と一緒で物差しも多角化するだろう思いました。

中央集権や、男性が中心という考えが続くと上手くいかないのでは?と思い、上手くいくにはその逆の地方分権や女性では?とリーマンショク前の2006とか2007年くらいから考えていました。でも、東京の金融機関で普通に働いていて。自分の身にリーマンショックや、東日本大震災が降りかかってくる中で、時代も変わっていかなくてはいけないし、自分は地方の時代と思い始めていて。それは地方創生といわれるはるか前で、あれ?結構先読みできてる?と思っていました。

2011年の11月に、大阪でダブル選挙があって大阪維新の会が圧勝しました。そこで、若い人だけではなく、シニアの人も変革というのを望んでいるんだなと感じました。先読みしていると思っていたけど、世の中の流れってもっと早いんじゃないかと感じましたね。俺なんか遅いなーと思って。地方の時代だと思っているのであれば、自分が地元に戻るなり、地方に行って新しいライフスタイルなり、ビジネスモデルを体現させないといけないなと思って。あの結果見て辞める決断して、翌年の1月末に会社を辞めて四国に戻りました。

 

 

 

・東大卒エリートサラリーマン些細なきっかけからポン菓子職人へ

その時に会社を立ち上げることと,地域活性に携わることをするという2つは決めていたんですけど、それ以外のことは何も決めていませんでした。これまで小豆島にご縁はなかったんですが、小豆島がおもしろい!と自分で思ったので移住しました。ポン菓子は本格的にやった最初の事業なんですけれども、ポン菓子は飲み会の悪ノリで。東大リーマン卒の変な奴が地元に戻って来たと。おもしろそうだから呼ぼう、ということで、地元のNPO総会の打ち上げに呼んでもらったんです。おつまみにポン菓子が出てきて食べてたんですね。

「ポン菓子って最近見なくなったよね。」

「うまいのになんで売れないんだ?」

「ダサいからじゃないですか?」みたいなことをいっていて。

「ポン菓子ってお米だけと思ってるかも知れないですけど、マカロニとかでも出来るらしいですよ。だったら、そうめんとか、落花生とか、島のものをポン菓子にしたらウケるんじゃないか。」と話をしていたら、若手経営者がスマホで、「ポン菓子の値段25万円。」って調べてくれて。意外と安いな!って思ったんです。

「よし、わかった。じゃあ10万円出資する。」隣にいた人も「よし。のった!俺も10万。」って。「お前暇だろ?暇だからポン菓子やれよ。」って言われて。「うーん・・・やります!」って言っちゃったんです(笑)それがきっかけですね。

 

 

・”ポン真鍋”で全国的ヒット 地域興し・地域貢献

飲み会での話だし。と思いながら家に帰ってから色々調べたり、何となく原価計算してみたら「やれるのではないか。」と思い、翌日、愛媛県にポン菓子屋さんやっている若い男性に聞いたら、”おにぎり屋よりは儲かりますよ”ということだったので、その勢いで東京に行って必要なものを買って、ポン菓子屋やったら・・・結構ウケたんです!

“おしゃれに売る”というのは決めていました。スターバックスの店員さんみたいな感じです。白のワイシャツに黒のストールをして黒のエプロンして。ポン菓子機が意外とかっこよくて。豆を挽くミルみたいな感じで。当時“ポンバリスタ”って言っていました(笑)テキ屋のおっちゃんや、スーパーの移動販売みたいなイメージで、なかなか子供は買いによらないのですが、僕は一応綺麗な格好で、できたポン菓子をワインの木箱に入れて、紙のクラフトコップに入れて売ったら面白そうだと興味持ってくれたり。ポン菓子って面白くて、5分~10分あれば大きな音が鳴って、その周りがいい匂いになって。子供はめずらしくて寄ってくるし、お年寄りは古き良き時代を懐かしく思ってくれて結構売れて。高松で売り出した時はスマッシュヒットしました(笑)

“これまでは金融機関で150億円のビジネスしてた奴が150円のポン菓子を売り出した”という点でもウケて。香川では「真鍋」ってすごく多い名前なんです。ある人が、真鍋はややこしいから「ポン真鍋!」って言いだして。それいいなって思ったんです。子供も覚えられるし。名刺も、ポン真鍋にしたら広がってテレビでも紹介されました。NHKやぐるナイ。そこから物販をしていましたが、綺麗な格好でやっていたので色々な所から声が掛かり、図書館の記念式典とか、棚田の田植え式とか、出張で会社でやってほしいとか、駅、港、色んな所でやりました。挙句の果てには、結婚式で“ウエディングポン”(笑)ケーキ入刃ならぬ“新郎新婦、ポン機入ポン”とか(笑)それがまたウケて神戸、大阪でもやるようになって。

ポン菓子は、すぐに食べれるから食育の授業で使えるということで、学校に呼ばれるようにもなりました。授業でお米を炊いて食べようと思ったら、45分の時間がかかってしまう。ポン菓子は10分でできますから。それに、米や野菜の話もしてくれるからということでした。その辺は予想していなかったですね。

今はポン菓子屋さんはやっていません。もともと、ずっとポン菓子屋をやる気はなかったので。当時はポン菓子に反応する人がいて、高知や愛媛に同年代のポン菓子屋ができたし、テレビにも出たので県外からも問い合わせが来て、長野県、長崎県にも同じようなポン菓子屋ができました。広まっていけばいいなと思っていたのが広まって。フェードアウトしました。

 

・ポン菓子職人から新たな試み 食がテーマの情報誌

もともと地元の地域資源をいかに活用するかというところから始まって、ポン菓子をやりながら地元のギフトを作ったりとか、ティーチングツアーで都会の学生を小豆島に呼んで、地元の人と交流しながら中学生に勉強を教えてもらうというのを3年くらいやっていました。

色々やりましたが、自分の中で食がテーマだなと思って、2014年に“四国食べる通信”というのを始めたんですよね。四国食べる通信というのは、四国中の農家さん、漁師さん、畜産農家さんを取材して、きちんとデザインされた冊子をつくり、その人達が作った食材が付録で届くという「食べる情報誌」です。2014年から始めて、それが四国中に取材に行くことになるので、小豆島よりは、自分が生まれ育った高松の方が都合が良いと考え、高松に拠点を移しました。

それから基本的には”食べる通信のポン真鍋”でということでその事業中心に、新しい会社を立ち上げて2014年、2015、2016年とやり、その途中でこの篠山の施設の前身となった”フィールドステーション”という篠山市と神戸大学が連携してつくった施設なんですが、この事業に携わり始めたんですよね。

当時、週に1回香川から篠山まで往復7時間かけて車で通っていて。そういったことをしているうちに、結婚して子供ができて。毎週往復7時間かかるのはさすがに辛いなと思いました。特に、子供が小さいうちは家族の時間を大切にしたいなと思いました。四国に残るか、篠山か、神戸かと考えて、食べる通信は自分で始めた仕事なので自分のタイミングで辞めれるけれど、施設の事業の仕事は、いただいた仕事でやり始めたことですし。それに、博士課程で学生として神戸大学に通い始めていたので、こっちに来た方がいいと思い、家族と相談しました。嫁は三田市の生まれで、おじいちゃん、おばあちゃんは篠山にいるんですよ。お父さん、お母さんも篠山にいて、子供が小さいうちは母親の近くの方がいいだろうなと思ってこの4月から引っ越してきました。週に2日は篠山に、週に2日は神戸大学で自分の研究をして、残りは個人事業主のようなかたちでファシリテーターや、プロジェクトに携わったり、別の大学の非常勤講師を受けながら家族を養っています。

 

 

 

・変化し続けた今 これからの展望

困ったことに先の事は何も決まってなくて。僕は長いゴールを見据えて着実に上っていくのが下手くそなタイプなんです。そういうことが出来る人たちは尊敬しますが、僕は出来ないなと思っていて、今僕が置かれている立ち位置で求めてくれる人もいるし、自分が興味のあることもありますし、ご縁もあるので、大切なことはそういった目の前の事に対して全力を出すことなのかなと思います。

僕は昔は高松市長になると思っていたんです。でも今はそれを昔ほど強く思っていなくて。それは子供が出来たり、家族が増えたということが大きくて、まずは自分のなるべく近い存在を幸せにするということの方が大切だと思うようになりました。でもそれは自分の家族だけじゃない、集落もそう、町もそう。そこから何か出来ることがあるんじゃないかなという想いもある。昔は市のグランドビジョンを立てるのは市長だし、首長にならないといけないと思っていました。でも、そうじゃないやり方もあるんじゃないかなと。まだパブリックなセクターで働くことを放棄したわけではないですが今は身近な所に興味がありますね。

 

 

 

・これからの時代を分析。○○屋と呼ばれない新しい働き方

これから働き方が劇的に変わっていくと思います。フリーランスという言葉自体もなくなっていくかもしれなくて、みんなフリーになるんじゃないかなと。ある会社に所属するということがメインとなる仕事もあるかもしれないんですけれども、劇的に少なくなると思います。僕はもともと金融機関にいたのでその辺の情報に目がいきますが、もう大手のメガバンクが、どこも数千人規模で、2020年までに人員削減しますという話をしていて、AI一台入れるだけで保険会社の仕事50人分の人件費、人材がいらなくなるとか。急激に、ある一つの会社に所属するというのはなくなるのではと考えています。それ以外の会社でも働くことになるのではないでしょうか。自分が小豆島にいる時に、”○○屋”と言われなくなろうと思っていたんですね。それは、“新しいビジネススタイル、ライフスタイルを体現していかなくてはいけない”と思っていたので。金融マンですね、不動産屋ですね。って言われちゃうとその時点で過去の概念だから、“何しているかわからないけど何とか生きている”でいいんじゃないかなと思ってます。
これからの稼ぎ方が、ある会社に入ってサラリーマンというだけではなくて、スポットでいただくこともあり、プロジェクト単位でいただくこともあり、ということもある。というかたちで稼ぎ方が変わっていくんじゃないかと思いますね。

住所〒669-2212 兵庫県篠山市大沢165-3
連絡先TEL/FAX 079-506-6628
社員数3名
URLhttp://sasayamalab.jp/
備考「神戸大学・篠山市農村イノベーションラボ」ではインターンを募集しています。興味のある方は気軽に上記電話番号からお問い合わせください。